小関和夫のタイムトンネル/目次

小関和夫プロフィール

小関和夫プロフィール

東京生まれ。某電気メーカーの研究所を経て自動車雑誌の編集者になった後1972よりバイク雑誌のほとんどに執筆。歴史モノから技術史、パーツのチューニング記事などが得意分野。本稿関連では池田書店「単車BMW」同「サイドカー」などがあり、いずれも絶版、オークションで高値がつくほど。最近刊は三樹書房間「CBストーリー」「日本のスクーター」「スーパーカブ」など。JSC=日本サイドカー連盟事務局長もつとめる。別冊MC誌でサイドカー、ロードライダー誌でパーツ、HOTBIKE誌で歴史について連載中。

第六話/小関和夫のタイムトンネル

JSCって メリットは?

よく聞かれるのが、JSC=日本サイドカー連盟に入ってみてのメリットってありますか?と、よく聞かれることがあります。
JSCのCはCommunity=コミュニティという意味会いですから、同じサイドカーに乗って出会えればそれで良し、そのうちに気が合えば仲間になるだろうし、嫌いになってもサイドカーという潤滑剤でミーティングなどに参加してもらって、同じサイドカー乗りとして認知しあえばよいだろう。といった主旨でJSCが存在しています。
ですからJSCに入って頂いてメリットは、と考えて頂いている方には、正直いって“何の得もない”かもしれません。ただサイドカーなどで疑問や問題が生じた場合には、何らかの情報が得られるようにはなっています。
入会される方の中には、その昔にミーティングに参加させて頂き、運転のアドバイスをもらったり、マシンのセッティングが合っているか診断してもらったり、初心者講習でサイドカーを知ることができた…とかできたことでJSCに入りました、ということを伺うこともあります。
サイドカーという乗り物のユーザー層は、バイクのマニアから初心者まで、幅広い人達が実際にいるものです。例をあげれば、サイドカーに乗っているんだから他の人とは違うんだ!という人から、家族でバイク感覚を楽しみたいからサイドカーに乗ってみた、ミリタリーにあこがれて乗ってみた、昔サイドカーに乗っていてそのうち入手したい…とかいった例まで実に多彩です。
そうした多彩な人達が全国的に集まる、地域毎に集まる、種々のミーティングが各地で開催されています。ですからJSCがどのようなものなのか興味本位でいいですから、まずは一般の人として参加されることをおすすめします。
それで何か共感するものがありましたら、入会して頂ければよいかと考えます。JSCでは全国のサイドカーイベントの概要がわかるように、会員向けにお送りする機関誌JSCKaigiにて開催と事後のレポートを載せています
ミーティングについては、5月の全国ミーティングにはじまり、夏の東北大会、秋のオータムは中部から関西地域で、西日本秋は中国、四国、九州での開催になります。全部参加する会員もいれば、全く参加しない人もいます。JSCで参加を強制することもありません。
いずれにしても、もしサイドカーのオーナーになられたなら、一度はミーティングに参加して頂くか、JSCのHPにアクセス頂ければ、JSCの一端を知って頂けるのでは、と考えます。そして興味がありましたら入会案内を取り寄せ頂き、機関誌をご覧頂ければ幸いです。
JSCに入って何がメリット?と問われれば、サイドカー乗りでの気の合う仲間に出会えるかもしれない、ということぐらいですが、入会された方は既に2100名を超えていますから、多くの方の出会いがあったと思われます。
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写真説明:第40回、40周年を迎えたJSC全国ミーティング。三重県伊勢市にて開催、のべ500名以上、230台もの参加台数を数えた。JSCの各地でのミーティングはサイドカーに興味があれば徒歩、自転車、クルマ、電車などでの参加も可能。家族連れで参加する例も少なくありません。


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第五話/小関和夫のタイムトンネル

JSCの東西交流

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1970年代の最初の頃は、BMWの純正サイドカー自体が日本に「たった2台」という状況だった。当時のJSC=日本サイドカー連盟といえば、東京の足立区にあった小見会長の家に、日曜日に会員が集まってサイドカーについて話していたり、中古のサイドカーがあれば皆で観にゆき気に入ったら購入するという方法を採っていた。
とにかく「1台でも多くのサイドカーを活かしてやろう!」という会長の意気込みはすごく、働いていた給料すべてを皆のために使っていたような気がする。5月のゴールデンウィークに1968年から開催していた利根川キャンプが翌年には全国ミーティングとなって、日本中からサイドカー好きが集まるようになる。
だが、待っているだけでは交流ができない!と1972年の夏に、JSCの有志=休暇が取れる人達で鳥取までゆこうということになった。鳥取の佐治村にSRC=山陰ライダースの村上さん、手前の兵庫の佐用には赤穂100マイルクラブの冨井さん(現雨降り主)、さらに手前には神戸サイドカークラブの神田さん、さらに手前には愛知BMACの神宮司さん(現ボクサークラブ代表)が小見会長と交流=文通しており、皆で鳥取を目指したのである。
JSCからは小見、神田、浅野、矢野、鈴木、小関など東京および埼玉在住のメンバーがBSAのB33サイドカー、BMWのR50サイドカー、W1Sサイドカー、メグロSGサイドカーなどに乗って東名をひた走る。W1S以外は会長の所有者で、皆で乗回した。当時の東名は日曜日でもガラガラ、途中で神宮司さんのW1Sカフェレーサーと合流。神戸に着く頃には夕方になっていた。神戸の旅館に泊まり神田、浜田さん等と交流。翌日は神田さんの陸王1200サイドカーを先導に姫路をめざす。
私はSGが東名を100km/h巡航できるのに感心、神戸からBMWに乗って先行する。当時は姫路に友人がいて毎年のようにおじゃま(2サイクル360ccのハイゼットのアクセルに石を乗せて東名、名神、第二神明を全開走行していた。)しており、道も知っていた。国道2号線、姫路駅の手前で岡山ワールドの皆さんと会い「後から皆が来ます」と伝えて、姫路市内の友人に会って集合地に戻って合流。姫路から北上して佐治村をめざす。ところが後ろにいた冨井さんが、停止する以外はすべて片輪走行で走っているのにビックリ!。「ヘエー、変わった人がいるものだ。」と考えつつ佐治に到着。冨井さんはすぐ自宅に帰って、翌朝に出直してくるというから、タフさにまたビックリ。
そんなわけで鳥取、岡山、兵庫、愛知との交流がスタート、SGは村上さん宅に残してサイドカーの普及に使ってもらうことになり、長石さん(現フラット商会経営)が引き継いでゆくわけである。
鳥取で2泊、砂丘をはじめ出雲大社や松江を走り「いいとこだなー」と皆で話し合って帰路につくことになる。国道9号から京都を目指すが途中の峠のコーナーの多さにビックリしたこともあった。京都に着いて「京都の人に宿を紹介してもらおう」と、電話して会ったが旅館には泊まったこといがない…という。冷静に考えればそれも道理であるわけだが、もうクタクタであったため、どの辺に安い宿があるかのみ聞いて、西本願寺そばの宿を訪ねて「汚いんですが泊めてもらえますか?」「いいですヨ。」で助かった!と感激!
翌日は名神、東名を経て神宮司さんの友人、次郎長ライダースのある沼津で降りる。だが友人は翌日の富士スピードウェイのレースに出るため不在。夕方になり「三保の松原でキャンプ!」と海岸に向かうが警らのポリスが「まかりならん」と追い出され、「しょうがない、富士にゆこう」と東名の御殿場で降り富士スピードウェイの入り口に。
時にヤマハグランドフェスティバルの前日で入場待ちのクルマがズラリと並ぶなか、JSCメンバーは正門前の芝生上にテントを張ってバタン・キューの就寝。翌朝がクルマやバイクの音で起こされ東京をめざしてひた走り、無事に全員が足立区に戻り、談笑後に解散となった。
この東西交流がきっかけとなり、JSCは日本メグロクラシッククラブの竹田さんなどと交流を持ち、神宮司さんと私は四国のメグロミーティングに出かけたりした。またメグロのメンバーなどが「関西でもサイドカーミーティングを」と立ち上げたミーティングがきっかけとなって岡山支部などが「西日本秋のサイドカーミーティング」を開催することになるわけである。
写真解説:
第25回をもって休息している雨降ミーティングの、これは明石大橋が開通した時=第19回の南淡路で開催されたもの。10年ほど前の私は、今も変わらないが毎週のように原稿の締め切りに追われ、ミーティングのほとんどをクルマか新幹線乗り継ぎなどで出向かざるを得ない状況下にあり、南淡路にも神戸の垂水からバスでいった記憶がある。「サイドカーに乗っているの観たことがないネ。」と声をかけられるが、JSC会議など機関誌を含めての雑誌など取材には失敗が許されないから、カメラ2−3台持参となる。加えて振動の少ない方法が優先される。以前にクルマでも振動でカメラが壊れて取材できないことがあった。サイドカーも意外に振動が伝わってくるものであることを実感させられた。もっとも今では無反発枕を敷けば振動はかなり防げるようにはなったが。


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第四話/小関和夫のタイムトンネル

JSC発足のころ

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JSCとはJapanSidecarCommunity=日本サイドカー連盟の略です。発足したのは1968年ですから今年で39年目になります。現在も東京の足立区に住む小見欽哉会長が設立しました。現在では「サイドカーに興味があれば誰でも入会できます。」が、当初は「サイドカーについてのレポートを提出」して、会員として適切であれば入会できる…という厳格な入会規則でした。その後、二輪専門誌にJSCが取り上げられ、ほどなく賛同者を全国的に募集して現在のSRC=山陰ライダースや日本メグロクラシッククラブなど各クラブとの交流がはじまりました。
私がJSCメンバーになったのが1972年ですから、設立メンバーではないのですが、二輪誌で初めて「サイドカー特集」を組んだ「BIGBIKE」誌の会社にいてサイドカーの記事を手伝ったりで…自動車雑誌の編集者だったため「広報活動」を任され、現在に至っています。
JSCの黎明期における活動は「5月の全国ミーティングで交流を持つ」というもので、これは現在も変わっていません。会員全部が集まって「サイドカーについて語り合う」というもので、群馬県の利根川河川敷を申請して借りました。当時は現場の河川敷の担当者にあいさつすれば良かった…のどかな時代で、現在なら許可されないでしょう。
河川敷ですから、宿泊は当然キャンプです。テントを持ってゆき自分で貼り、みんなでキャンプファイヤーを囲んで夜遅くまで「サイドカーへの考え」を語りあったものです。1日目は集合して語らい、翌日は河川敷でジムカーナーやパン食い競技、場合によっては連泊して初心者講習会も行いました。
初心者講習会に際しては練習用サイドカーがない場合、会長が安価な250cc(カワサキメグロ250SGが多かった)をみつけてきて、サイドカーを自作して装着しました。サイドカーの車体は会長が、ボディは現在ハーレー・カスタム界の重鎮である「サムライ」のタメさんこと中島昌人氏に頼んだりしました。中島氏は東京レーシングカーショーの常連で水陸4輪車や東京モーターサイクルショーには日本で最初の「チョッパートライク」を製作していましたが、NSUサイドカーに乗っていた旧JSCメンバーといえる人物です。
キャンプ形式を採っていた全国ミーティングも「遠くから来る人達にお風呂に入ってもらおう」と箱根で1974年の第6回目にホテルを借りて行いました。ヨーロッパから帰国してほどないバイワーゲンというショップを開店して間もなかった市橋武夫氏が幹事になりました。当時の形態は「予約なし、参加したい人が適当にきてください。」というアバウトなもので、概算100から150名でホテルの予約をとっていました。参加は多く幹事は食事もなく廊下に寝る始末でしたが、参加費が低く設定してあり、この6回目はけっこうな赤字で、市橋氏が損金をカバーしたりしました。
翌年の開催に向け「箱根のホテル開催はやはり、お金がかかる」と、小見会長と私は3月ぐらいに安いホテルを探しましたが、100名以上宿泊のホテルは少なく、あっても当時はけっこう高い宿ばかりで…結局7回目は箱根でも西湖のキャンプ場を貸し切りました。あらかじめおおよその参加予約をとったのですがかつてない大雨で、到着時間など遅れる人が続出、テントを張っても下から水が浸入してくるほどで散々でした。「だからキャンプはイヤダ!」ということになり翌年の第8回目は再び箱根のホテル開催になったのです。
二回目の箱根は大方、成功しました。小雨だったのですが二輪専門誌にもレポーターをまかされてその様子が掲載され、サイドカーの存在性もわかっていただけたような気がします。また関西圏では5月の全国ミーティングに出向けない人に向けて「秋のミーティング」が開催されるようになりました。(続く)


写真説明
JSC全国ミーティングも初心に帰って、度々キャンプ形式が実施されてきた。ただ館内宿泊と野外キャンプが同時に行える施設は、保安上からか極めて少ない。写真は20年以上前の松原湖キャンプ場にて。松原湖ではホテル宿泊とキャンプとに分かれて宿泊となった。キャンプ場ではサイドカーの間にテントを張った。当時は5月といってもけっこう寒いが、最近は暖冬気味でキャンプもいいかもしれない。


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第三話/小関和夫のタイムトンネル

JSCのお話

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日本には60年代までサイドカーのクラブというものがありませんでした。
わが国にサイドカーを普及させたのが東京の港区三田にあった太陸モータースの故太田政良さんで、通常は漢字では「大陸」ですが、太田さんの太をあててモータース名にしていました。太陸のクラブが唯一「日本サイドカークラブ」という初のサイドカークラブを結成しました。その大きな理由は太田さんが全日本モーターサイクルクラブ連盟つまりMCFAJにかけあい、クラブマンレースにヨーロッパなみのサイドカークラスを導入させたため、それに参加するためクラブを結成したというわけです。
太陸モータースでは、サイドカーの普及のためあらゆるサイドカーを製作しました。太田さんも最初は陸王1200サイドカーに乗っていて、東京の陸王修理店だった「大陸モータース」に通ううち、そのお店を自ら経営するようになったというわけです。
JSC の小見会長も、日本で唯一のサイドカー店であった太陸で、第1および第2号車を製作してもらったとのことです。太陸は60年代中ごろからBMWとBSAなど外車ユーザーを対称に高級車を扱いだしたため、英車や国産車でサイドカーを装着することが少なくなりました。また1960年頃を契機に「側車付自動二輪免許」が廃止され、陸王やメグロのサイドカーも生産されなくなり、自動二輪車の側車車検を受け付けてくれない状況になりました。
このためサイドカーが世の中から消えてしまうのでは、という危機感に立った小見会長が日本全国のサイドカーファン達に呼びかけて1968 年に結成されたのがJSCです。JSCとはJAPAN SIDECAR COMMUNITYの略で、通常の連盟はJAFのF=FEDERATIONとかLEAGUE=リ-グですが、あえて「コミュニティ」としたのはサイドカーでの「共有、交流」を目的としたからです。
日本全国にあったサイドカーの情報を二輪専門誌の売買欄から入手して、できるだけ買い取ってバイクの装着、会員に無償で貸して乗り方を練習してもらおうという主旨でした。私も日曜日にはJSCの集まりに出かけ、会長のサイドカーに乗せてもらい、乗れるようになったら借りて自宅まで帰ったものです。
もちろん無償で借りられ、自分のバイク用のサイドカーをみつけてもらって装着されたときにお礼をするシステムでした。サイドカーショップは太陸モータースぐらいで、その他のサイドカーの普及活動はJSCの東京本部(当時)が行ってました。
バイクもホンダCL72、陸王、BSA、アリエル、サンビームなどレアなマシンに国産のミナト式、キャブトン製などを装着していましたが、たまには英国製の1920年代のものがみつかったりしました。写真のサイドカーは1972年ごろのBSAサイドカーと、後方はBMWサイドカーで、いずれも小見会長のものでした。(続く)

写真説明:70 年代はじめの毎年正月はJSCのサイドカーツーリングが行なわれていました。写真のエンジンをキックしているのが小見会長で、BSA500cc単気筒 B33に1920年代のレアなカーを装着して乗っていました。後方のBMWサイドカーも小見会長のものでJSC会員が適時、無償で借りて乗っていました。そのうち両車ともにJSCの運営=サイドカー製作資金など捻出のため売却せざるを得なくなり、メグロSG+JSC製サイドカーが、普及をはかるための初心者講習会用に製作されることになりました。


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第二話/小関和夫のタイムトンネル

レポーター&ライターのお話

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前回の写真にあるサイドカーは、JSCの小見会長に取り付けて頂いたものですが、70年前半は「JSC事業部」なるものが存在していました。場所は埼玉県熊谷市銀座の松本自動車の松本一男氏が得意の板金技術を活かして、スタイプLS200やTR500スタイルやワトソニアンスタイルのFRP製サイドカーを製作して、安く会員に分けていました。
今日であれば、スタイプもワトソニアンも新品なり中古が購入できますが、35年も前の日本では、サイドカーのメーカーもない時代でわずかに残った60年代までの国産であるミナト式、50年代のキャブトン製をみつけるしか入手する初段がなく「それなら自分達で造ってしまおう!」ということになったわけです。 小見会長がセッティングとフレームの自作を東京で行い、ボート部分は熊谷で製作するというシステムで、ほとんどボランティアでした。JSC に途中から入った私は運良く「キャブトン大型サイドカー」をBMWのR67/2に装着して頂きました。まだ家電メーカーの研究所に勤めるサラリーマンであった私は、努めて通勤にサイドカーを使いましたが、出張後の時間がある時はサイドカーを近所の団地に停めておいて出社し、退社後にサイドカーで帰宅したりで、多くの時間、サイドカーに乗っていました。
たまたま出社途中にオートバイ誌の梶田さん(後に編集長)の取材にあったりしました。そうこうしている内に研究所の「研究発表」というのがあり、レポート数10 枚を書くうちに「今の仕事よりも書くほうのが、面白いのでは」と考えるようになり、雑誌社の「編集部員募集」に興味をひかれ応募しました。書類を出しにその出版社にサイドカーで出向いたところ重役の人達と話が合い「無試験」で入社できたのです。同期入社の編集部員は英語や文学の試験があったというから、まさにサイドカーが生み出した私の進路といえるかもしれません。
もっとも編集部とはいってもクルマのほうでした。隣には「BIGBIKE」という編集部があり、私がサイドカーに乗っているからではないでしょうが「サイドカー特集」を、東京の太陸モータース中心に行うことになり、私は「いろいろな自作サイドカーを造ろう」というページを担当、イラスト込みで誌面参加しました。
そうこうしているうちに、その出版社はなくなり、私はフリージャーナリストという立場になりました。別名でライターとか名称はいいですが、いわゆる出版社の下請けです。まずはメンズクラブからGORO のような雑誌のイラストレ?ターになりましたが、月2点程度では暮らせるものではありません。幸いにも4輪はカートップの中古車批評、2輪はモーターサイクリスト、オートバイ両誌のレポータ?(取材すること)そしてライター(好きなテーマで書くこと)からヤングマシンのレイアウトまで依頼があったので、なんでもしました。当時に二輪雑誌はこの3冊のみで、とにかく3社からなにかしらの仕事が毎月ありました。
ただし撮影のカメラマンの仕事は断りました。というのも「きれいに写ってないとプロではない」のが、すぐにばれますから2輪専門のプロカメラマンになれる人はホンの数人というわけで、これは今も大きくは変わっていません。
今日でいえばインターネットのブログ的なものは誰でも書けますが、目のさめるようなバイクやサイドカーの写真は、けっこう難しいのと同じわけです。原稿の類は自分の想い入れでどうにかなりますので、私の場合は小学生の頃から集めた2輪、4輪のカタログや雑誌類の束がどこに置いてあるかという、少しの記憶力が今日まで大いに役立っているというわけです。従って現在では書くのも書籍では図書館向けの歴史書に絞っています。
これまで30 年以上、いろいろな方のインタビューをさせて頂きましたが、人間の記憶力も10年もすれば物事の順序が逆になったり、記憶違いもありました。したがって歴史を原稿にする場合、当時の資料をできる限り集めておくことが重要なわけです。もしバイクからトラック、バスに至る昔の資料をお持ちの方がありましたら、ご一報ください。(続く)
写真説明
1970 年代、JSCの正月恒例だった「雪上ツーリング」でのひとこま。手前にホンダCB450サイドカーが2台。いずれもJSC事業部で製作したもの。まだカワサキ650W1が扱く高価格のため、サイドカー装着のベース車には価格のこなれたCB450を選択したものだ。後方の奥にはバイワーゲン製のワトソニアン型という希少なサイドカーも写っている。この頃のサイドカーの多くは「側車付オートバイ」の車検を受け付けてもらえず、ほとんどソロの登録車が多く、 JSCでは「万が一の事故」に備えてJSC保険サービスを小見会長が立ち上げてゆく。


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第一話/小関和夫のタイムトンネル

サイドカー以前のお話

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私がサイドカーに乗る以前のお話をしましょう。住んでいるのは今も変わらず、東京はJR山手線の恵比寿駅から徒歩15分くらいの場所です。小学生の頃までは日本が第二次世界大戦で敗れた形跡として、米軍の駐留基地がありました。恵比寿周辺には数軒の自転車店兼バイクショップが沢山あり、新聞社で使う陸王1200サイドカーなどがバタバタと音を立てて走っていました。東京も、まだクルマやバイクの普及も少なく、多いのは三輪トラックの類でした。小学生の頃は知り合いの人のスクーターや三輪トラックに乗せてもらったものです。家の2軒隣の自転車店ではレンタルスケーターがあり、1回5円とかで借りて二輪車の醍醐味?を味わっていました。
中学製になる頃の14歳になると原付に乗れましたが、それ以前に友人が50ccを持ってきたので無免許で乗ったりしていましたが、当時のおまわりさんは捕まっても、顔なじみで無罪放免でした。しかし大手を振って乗りたくなり免許に取得して学校そばのバイク店で自転車取り付け50ccエンジンを購入。こればバラバラにしてそのままでした。高校生になった頃には山口オートペットに乗っていました。偶然にも学校の先輩ということでしたが、山口は倒産。次にトーハツ・ランペットを50,60,スポーツと乗りましたがやはりトーハツの会社は倒産。次にBS90ツーリングにレース用アルミシリンダーを自分で組んで乗っていました。これは3速までウイリーするのにビックリしました。BSもバイク生産中止ということで、どうも、私が乗ったメーカーがマイナーだったせいか、世の中から消え去る運命にあったようです。
その後はヤマハYDTというツーリングマシンに乗っていましたが、北海道に住む友人からBMWが格安であるとのことなので、北海道にゆき購入することができました。当初は250ccということでしたが、イザいってみると600ccの「R67だけど登録は日本車のBIM」という複雑なマシンで「だから格安にしよう」ということで即決。購入した旭川から友人宅の富良野まで帰路ツーリング。翌日以降も数日間、北海道をツーリングざんまい・・・していました。
そうこうしているうちに当時サラリーマンだったため夏期休暇も使い、当時の国鉄貨物便でバイクを旭川から東京まで送り手配をしました。現在のように宅配もなく大きな荷物は「駅から駅」というのが昭和時代の荷物の送る方法で、自動車からふとんまで扱っていました。ちなみに東京から自動車運搬は、当初は東小金井という都内から離れた場所でしたが、すぐに恵比寿駅で扱うことになったのですが、ほどなく廃止されました。
ところが待てど暮らせど、BMWが届きません。なくなったかと追跡調査してもらおうと考えていたところ・・・なんと4ヵ月近くかかって、渋谷駅から電話があり「今ドデカイバイクがついたのだが、ジャマなのですぐにとりにきて」とこと。すぐにヘルメットを持って駅までゆき、そこで乗って引き取ってきたわけです。「貨物になるのでガソリンを抜く」とか、当時はいわれなかったのでキック一発で乗ることができました。
それから毎週ツーリングです。まずはBMWの高速性能を知るために伊豆半島まで日帰りツーリングを実施、120km/hになるとヘルメット後にもってゆかれるのを体験、それと国産車ではエンジンの音が気になるのが、BMWでは音がしないような感じがした。中学生の時に村山モータースで聞かせてもらった「BMWの無音」が自分の愛車になって感激したものです。
そんなことで、毎日のように乗っていたわけですが、上野のバイク街に用品を購入しようと東京パーツに寄ったところ「あれ、お兄さんもBMWかい。もうすぐすればサイドカーがくるよ。」というので待っているとJSCの小見会長がさっそうとサイドカーでやってきて「いいですね、どうです、サイドカーとつけませんか?」と、そこで小見会長にサイドカーを装着してもらうことになるわけですが、当時=1972年はサイドカー不足の時代ゆえすぐにはなくBMWに似合うものが出てくるまで持つことになったのです。(続く)
写真説明
北海道までいって購入したBMW R67とJSCの小見会長に装着して頂いたサイドカーと私、写真はモノクロで友人の矢野さんが撮影したもの。左奥にBMWやCBのサイドカーが駐車しているので、利根川時代のJSC全国ミーティングかもしれません。や今から35年ほど前のことでモノクロプリントです。これで関西までしょっちゅう出かけたものです。BMWは6V電装でハンドルに電圧計を装備して充電するかチェックしていました。カーそのものは国産=50年代キャブトンの大型タイプです。

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